今回は、弘前藩主津軽家の分家について「津軽家一門并六家系譜」「代数調 津軽家一門外」(弘前図書館所蔵八木橋文庫所収)を参考史料に述べていきます。
目次
各家の継承順を示すため、嫡系以外の人物は省いた。詳細な男系の系図は前回記事参照。
名前の右上の文字について、弘は弘前藩主家、黒は黒石津軽家、男は津軽男爵家、百は津軽百助家、喜は津軽喜左衛門家、多は津軽多膳家、外は津軽外記家、主は津軽主水家、頼は津軽頼母家、梶は梶川左門家の継承順を表す。

近現代の津軽家の系図は下記。黒石津軽家には女系で藩祖為信の血が流れているが、現代の弘前藩主津軽家と津軽男爵家は津軽承昭の女系血族となっている。

各家の概要と継承順
宗家
津軽為信━信枚━信義━信政━信寿=信著(嫡孫継承)━信寧━信明=寧親(黒石領主より転任)━信順=順承(黒石藩主より転任)=承昭(細川斉護子、婿養子、伯爵)=英麿(近衛忠房子)=義孝(徳川義恕子、承昭外孫)=晋(西田幾久彦子、義孝外孫)
信順までは為信の男系で継承していたが、黒石藩主家から順承が継いで以降は他家からの養子が続いている。順承は分家で家臣となっていた津軽百助家から承祜を婿養子として迎えて藩祖の血の復活を図ったが、承祜が早世したため実現しなかった。
津軽信英(弘前藩主津軽子)━信敏━政兕=寿世(弘前藩主信政子、婿養子)━著高━寧親(弘前藩主家を継ぐ)━典暁=親足(黒田直亨子、黒石藩を立藩)=順徳(松平信明子、弘前藩主家を継いで順承)=承保(親足子)=承叙(津軽順朝子、子爵)━類橘=益男(池田源子)━承捷━承公
初代の津軽信英は弘前藩主の信枚とその正室の満天姫(徳川家康の姪で養女)の子として生まれた。兄の信義の母が石田三成の娘であったことから、信英に津軽家を継がそうとする動きもあったが、失敗に終わっている。この騒動があったものの、弘前藩との関係は悪くなく、信英は後に弘前藩主信政の後見人になっている。3代政兕以降は早世した典暁を除いて弘前藩主から偏諱を受けている。
ところでこの政兕(まさたけ)という変わった名前の人物は『何羨録』という釣りの指南書のようで、釣りと人生を重ね合わせたうえで人生を諦観しているような文章を遺している。また、政兕は忠臣蔵で討ち入りされた吉良義央の娘婿でもあり、討ち入りの翌朝に真っ先に吉良邸に駆け付けたのは政兕主従という。
津軽楢麿(弘前藩主承昭子、男爵)=行雅(細川行真子)━承靖━承芳
津軽承昭は近衛家から養子を迎えていたが、実子の楢麿は分家して男爵に叙せられた。楢麿の次代の行雅は承昭の娘婿にあたる。なお、津軽行雅は承昭の父の熊本藩主細川斉護の弟の宇土藩主細川行芬の孫にあたる。
津軽信隆(弘前藩主信枚子)=政朝(弘前藩主信義子)=寿朝(一町田森貞子、信隆孫)━朝喬━健朝=朝久(健朝弟)=朝儀(黒石津軽家寿世子)━朝貞=順朝(嫡孫継承)=玄美(津軽外記家玄升子、津軽薫と称す)
津軽百助家は、津軽家の一門でも筆頭格であり、弘前藩・黒石藩ともに藩祖津軽為信の血筋が途絶えた幕末期には順朝の長男承祜が弘前藩主津軽順承の養子に、次男承叙が黒石藩主津軽承保の養子となっている。結局承祜は早世したために弘前藩主を継ぐことはなく、津軽為信の男系血統が復活した黒石藩主家も承叙の子の類橘の代で血統が絶えてしまった。
なお、黒石津軽家の津軽類橘の養子となった津軽益男の妻は百助家の津軽薫(玄美から改名)の娘であり、黒石津軽家には女系では津軽為信の血統が続いている。また、津軽薫は維新後にリンゴ栽培に力を尽くし、現在の青森県のリンゴ栽培の隆盛の礎となった。
津軽喜左衛門家
津軽為節(弘前藩主信枚子)=為永(弘前藩主信義子)━久豊=節芳(津軽多膳家為貞子)=節直(久豊子)=清真(節芳子)=清尚(溝江景平子)━清風━清貞━清温
津軽為節を祖とする。当初は「為」の字が通字で3代久豊の初名も為豊であったが、系図によると「元禄十年丁丑正月十一日表書院大番頭被命為字禁止ニ付久豊改」とあり、藩祖津軽為信の「為」の字の使用を禁じられたという。6代目の清真以降は「清」の字が通字となっている。
津軽為貞(弘前藩主信義子)=貞経(嫡孫継承)━貞如=貞栄(津軽外記家玄栄子、婿養子)━貞升━貞昌
弘前藩政で大きな役割を担ったのが津軽多膳家である。4代貞栄とその嫡子緝熈は同時に家老となり、父子執政となったが失脚し、蟄居となる。嫡子緝熈も蟄居となったため緝熈の弟の貞升が継いだ。貞升もまた藩政に参画するが、後に蟄居処分を受けている。
津軽為玄(弘前藩主信義子)━玄高=玄栄(津軽多膳家為貞子、婿養子)━玄賢=玄隆(玄賢弟)━玄正━玄升
津軽為玄を祖とし、「玄」の字を通字とした。玄栄は子沢山であり、実家の多膳家や頼母家に養子を出している。玄升の子の玄美は津軽百助家を継いでおり、津軽氏の血統を遺している。
また、婚姻関係をみても、3代玄栄の妻は2代玄高の娘で、死別後は隈部広当の娘を後妻に迎えており、4代玄賢の妻は多膳家貞経の娘、5代玄隆の妻は仙石好古(弘前藩主信著の子)の娘、6代玄正の妻は多膳家貞栄の娘といった具合に、津軽一族間での婚姻を重ね、津軽氏の血を濃く引いていると言える。また、3代玄栄の娘が百助家朝喬に、5代玄隆の娘が百助家朝憲に、6代玄正の娘が多膳家貞昌と平八郎家清貞に嫁いでいる。
津軽寧都 (津軽頼母家政模子)━尚徳━尚古=尚賢(尚古弟)━尚友━尚志
津軽頼母家の津軽堯模の弟の寧都(初名尚都)が分家し、家老になったことに始まる。寧都は藩主信寧の信任厚く、偏諱を受けている。通字の「尚」は、寧都の兄の堯模の初名模尚からの偏諱である。
津軽信経(弘前藩主信義子)━政模━堯模=範盛(津軽外記家玄栄子、婿養子)=模宏(津軽主水家寧都子、婿養子)=範之(嫡孫継承)=順範(範之弟)=福島模久(範之子)━津軽模正(津軽に復姓)
浮き沈みの激しかったのが津軽頼母家である。通字は「模」と「範」で、ともに「のり」と読む。2代政模は家老に任命され、弘前藩主信政の偏諱を受けている。また、5代模宏は名家老として知られ、子の順宏(初名は範疇)とともに家老となった。順宏が家督を継ぐ前に登用されたため、頼母家の家督は順宏の子の範之が継いでいる。
この順宏は弘前藩主信順の偏諱を受けているが、信順の後継者で、藩祖為信の血を引かない順承が弘前藩主を継いだ際に、津軽氏の血統を引く者が継ぐべきとする血統派に子で頼母家7代順範とともに加わった。順宏の号が東山だったことから、血統派は東山党と呼ばれた。しかし、前藩主信順の復帰運動が露見し弘化2年(1845年)順宏・順範父子は津軽姓を没収され、津軽主水尚賢に預けられた。頼母家の家督は範之の子の模久が継ぎ、知行地の福島村にちなんで福島を姓とした。津軽姓への復姓が許されたのは文久2年(1862年)模久の子の模正の代であった。
森岡為治(大浦盛信子)━信治━信元━信年━信安─元長━元隆━元武━元甫━元生=元徳(元生弟)━元民━元侯━元知━元貫━守衛
森岡氏は、大浦氏の庶流であり、大浦氏・津軽氏を一貫して支え続けた一族である。初代の森岡為治は大浦政信とともに戦死している。森岡信元は兼平綱則、小笠原信浄とともに大浦為信の勢力拡大に貢献し大浦三老と称されたが、後に為信に暗殺されている。子孫は弘前藩の重臣として存続し、家老を多く輩出した。
大道寺隼人家
大道寺直英=為久(弘前藩主信枚子)━繁清━直聴━繁糺━一経━繁殖━久繁━繁元=順正(繁元弟)━繁禎
大道寺家は、津軽信枚の正室となった満天姫(徳川家康の姪で養女)の連れ子である直秀が大道寺直英の養子となったことから一門に準ずる扱いを受けた。しかし、直秀の生家である福島家の再興運動を起こそうとしたところ、直秀は急死したという(毒殺か)。弘前藩主信枚の子の為久が直秀の娘婿となって大道寺家は存続し、為久も藩主の子であることから大道寺家は一門に準ずる扱いとなった。以降、大道寺家は代々家老を輩出することになる。
佐田靭負家
津軽信光(弘前藩主信枚子)━広庸━隈部広雄━広当━佐田広貞━広因━庸久━庸━庸直
当初は津軽姓だったが、疋田、新田、隈部、佐田と改姓している。隈部伊織広当は家老となったが、突如切腹させられている。弘前藩主津軽信著の酒食に溺れる様にたびたび諫言していたため煙たがれたとも、藩主廃立を画策したためとも言われている。
梶川左門家
津軽政順(弘前藩主信義子)━政安=工藤政幸(津軽多膳家為貞子)━順建━順幸=梶川安定(順幸弟)━安清━正武(不曲と号す)
3代目の政幸までは、政順の兄で政安・政幸の伯父にあたる弘前藩主信政の偏諱を受けている。順建、順幸は年代的に津軽信順の偏諱ではない。梶川安定の初名は順吉であることから、信順の諱を憚って改名したものと思われる(避諱)。
参考史料
「津軽家一門并六家系譜」(弘前市立図書館八木橋文庫蔵)
「代数調 津軽家一門外」(弘前市立図書館八木橋文庫蔵)

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