家系図探訪人

家系図や、養子縁組に興味を持っています。史料としては主に新訂寛政重修諸家譜を用います。Twitter:@rekishi290

鴻池(2)山中鹿介幸盛と鴻池一族

今回は、前回に引き続いて鴻池家について述べます。前回は隆盛を誇った江戸時代の鴻池屋一統の系図と分家について述べましたが、今回はその祖となる山中新六幸元と山中鹿介幸盛の関係について述べていこうと思います。

 

前回記事はコチラ

鴻池(1)豪商・鴻池家の系図 - 家系図探訪人

 

目次

 

山中幸盛の出自

 山中幸盛の出自としては、尼子氏傍流説、黒田氏傍流説がある他、近江国甲賀郡山中村から移住した者とする説、信濃国出身とする説などが存在し、ハッキリとしていない。

この記事では尼子氏傍流説と黒田氏傍流説を取り上げてみることにします。

 

尼子傍流説 

 『山中系図』にある尼子清定の子とされる山中幸久は『佐々木系図』など他の史料になく、信用性ない。また、本当に尼子の傍流であるならば山中一族は代々重用されていてもおかしくないはずだが史料に見えない。後世の付会である可能性は高いと思われる。

 

黒田傍流説 

 これは鴻池側の系図に載っているもので、それによると黒田治宗の子孫ということになっている。これが正しければ、福岡藩主黒田家と遠縁にあたることになる。ただし、『寛政譜』の黒田家の項目では黒田高政の後に断絶が見られているし、黒田家側の系図とは異なっている。ちなみに、江戸時代の豪商は三井家や安井家や住友家など、もともと武士であった家が多い。

 『寛政譜』の黒田氏の項目では、京極満信━黒田宗満━宗信━高教━高宗と続いて、「寛永系圖、高宗より重隆まで其間中絶と記せり。今の呈譜、高宗が子右近太夫高政、其子を重隆とし、高政故ありて近江國を去、備前邑久郡福岡に移り住すといふ。今前後の年歴をもて推考ふるに、代数なをいまだ足ざるに似たり。よりてしばらく舊きに従ふ。」とある。一方で鴻池側の史料には

 京極満信━黒田宗満━宗信━則高━政宗━宗政━治宗━高政━治重━重隆

となっている。 

これらの説をまとめると下図のようになる。

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山中新六幸元と山中鹿介幸盛の関係

  山中新六幸元の出自としては、

山中幸盛の子

・吉和義兼の子で幸盛の外孫説

・山中信直の子

の3つの説がある。

 

 善右衛門正成の婿養子となった甚十郎知貞の『山中家之記』によると、「養父(=正成)の父は新六、法名一翁宗円。其父は山中喜楽(=信直)、法名月秋道円」とあって、幸盛には言及していない。そして『山中家之記』には信直の父を高盛としている。また、和泉町鴻池家の『家醞記』によると、初代又右衛門之政の曾祖父を高盛としている。そして信直━新六直之━之政としている。ところで新六には鴻池直文という名も伝わっているようだが、ここでは直之と書かれてあった。諸書で共通するのは通称を新六、新右衛門とし、法名が宗円という点である。

 一方で、幸元は高野山に幸盛の墓を建立しているし、4代善右衛門宗貞は幸盛の位牌堂を作っている。ここまでくると、鴻池側の史料では幸盛との関係を意図的に隠しているように思えることから、ある時期までは幸盛の子孫であることを秘しておくように厳命した遺訓のようなものが存在したが、仏教の信仰心に篤い当主によって先祖供養の一環として幸盛の供養が行われたのではないかと考えられる。

 

参考文献

 島根県広瀬町観光協会編(2017)『尼子氏関連武将事典』、ハーベスト出版。

 宮本又次編(1967-1970)『大阪の研究』(全5巻)、清文堂出版

 宮本又次(1986)『鴻池善右衛門』、吉川弘文館

 

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