家系図探訪人

家系図や、養子縁組に興味を持っています。史料としては主に新訂寛政重修諸家譜を用います。Twitter:@rekishi290

相良氏の系図について

 今回は肥後国球磨郡人吉を鎌倉時代から明治維新まで治めた相良氏についての記事です。遠江国相良荘を名字の地とする相良頼景が人吉に下向したのが始まりで、以降は多良木荘、人吉荘を一貫して明治維新まで治め、子爵となった。

 

 目次

 相良氏の系図

相良氏の系図

 相良氏の系図。相良氏の男系は頼央の代で絶え、以降は他家からの養子が続く。

 戦国時代の相良氏と一族間の内紛

 戦国大名としての相良氏は、相良堯頼の後継として分家から入った11代当主相良長続の代に萌芽する。長続が球磨郡を統一して地盤を固め、その後球磨・八代・葦北三郡を領有した。その子為続は戦国大名の分国法として有名な『相良氏法度』を作成している。『相良氏法度』は17代当主晴広の代まで追記改訂が行われている。

 もっとも、分国法を制定したからといって秩序だった統治が行われていたかというとそうでもなく、一族間の内紛が絶えなかった。13代当主の長毎は叔父の頼泰、長泰父子を成敗し、14代当主の長祇は父の従兄の長定に殺され、長定が15代当主となったが長祇の庶兄の義滋、長隆に討たれた。すると今度は義滋が継ぐか長隆が継ぐかで争いになり、長隆は義滋に討たれることになる。

 16代当主義滋の代になっても争いは絶えず、先の頼泰の孫の治頼が謀反を起こしたため、治頼を追放している。義滋は叔父が養子に入っていた上村氏から晴広を養子に迎えているが、晴広の実父の上村頼興は晴広の家督相続の邪魔にならないように弟の上村長種を誅殺している。

 17代晴広は実父の上村頼興が健在だったこともあり、治世は安定していたが、晴広が1555年に、上村頼興が1557年に没し、18代義陽の時代になると、晴広の弟たちが謀反を起こし上村頼孝、上村頼堅、上村頼辰、稲留長蔵が討たれている。

 18代義陽は薩摩大口に出兵するなど領土拡大に努めたが、最後は島津義久に降伏している。島津氏の阿蘇氏攻めの先陣を務めさせられ、玉砕する形で義陽は盟友の甲斐宗運に討ち取られた。義陽の戦死後は長男の忠房が19代当主となったが、その際も義陽の弟の頼貞が家督を狙って挙兵するなど、最後まで内紛が絶えなかった。

 忠房没後は弟の頼房が20代当主となり、九州征伐の際には豊臣秀吉に降伏し所領を安堵された。なお、頼房が朝鮮出兵で留守の際に上村長陸が謀反を起こしたが失敗して討ち取られ、上村氏は絶えた。頼房の代に関ヶ原の戦いがあったが、当初は西軍についたものの、内通工作を行ったため所領は安堵され、人吉藩主となる。

☆付きの赤字の人物が内紛で死亡した人物

 もっとも、江戸時代の人吉藩相良氏もまた家臣間の内紛が絶えず、相良氏の男系最後の藩主の相良頼央は暗殺されている。頼央の養子の相良晃長が早世した際は公家の鷲尾家から身代わりの藩主(頼完)を迎えるなど、幾度も断絶の危機を迎えている。頼完の次々代の長寛は岡山藩池田家からの養子で、以降現在に至るまで長寛の子孫が継いでいる。

  参考文献

 『相良家文書 藤姓相良氏系図

dcollections.lib.keio.ac.jp

 『新訂寛政重修諸家譜

 人吉の写真

 令和5年8月18日に、旅の途中に人吉市に寄った際に撮った写真です。

人吉城の石垣と球磨川

相良家の菩提寺、願成寺

願成寺の相良家墓所の説明板。歴代の墓がある。

歴代の墓が立ち並んでいて厳粛な雰囲気があった。

 

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