家系図探訪人

家系図や、養子縁組に興味を持っています。史料としては主に新訂寛政重修諸家譜を用います。Twitter:@rekishi290

菊池氏の系図について

 今回は九州の南朝方の主力であり、肥後国守護大名となった菊池氏の系図についての記事です。菊池能運以降は他家からの養子が続き、肥後守護職の戦国大名としては大友氏からの養子の菊池義武の代で滅亡したが、菊池能運の子孫は米良山にて血統を繋ぎ(米良氏)、明治維新に際して子孫の則忠の代に菊池に姓を戻し、則忠の子の菊池武臣は男爵を授けられた。

 

 目次

 菊池氏について

 菊池氏は、刀伊の入寇を撃退した藤原隆家の子孫を称している。藤原隆家の子とも孫とも言われる藤原政則の子が菊池氏初代の菊池則隆である。その後、則隆─経隆─経頼━経宗─経直─隆直─隆定=能隆(隆直曽孫)─隆泰─武房=時隆(武房孫)=武時(時隆弟)と続き、下記系図の菊池武時に至る。その後、武時─武重=武士(武重弟)=武光(武士兄)─武政─武朝─兼朝─持朝─為邦─重朝─能運=政隆(持朝曽孫)=武経(阿蘇惟憲子)=武包(菊池武安子)=義武(大友義長子)と続く。菊池氏というと、「武」の字が通字という印象があるが、それは武房以降で、それまでは「経」「隆」が通字であったようである。

 菊池氏は菊池武房元寇で武勲をあげたことで有名で、その孫の武時が倒幕運動を行うものの鎮西探題に敗れ敗死したが、建武の新政において子の武重は肥後守護となった。武重とその兄弟らは南朝方として戦い、菊池武光の代では征西将軍宮懐良を奉じて九州南朝方の全盛期を作り上げた。しかし、武光の死後は九州の南朝方が劣勢となり、武光の孫の武朝のときに南北朝の合一となって肥後守護代となる。その子兼朝は室町幕府から公に肥後守護職を認められ、その子持朝は将軍足利義持から偏諱を受けている。持朝は大友氏への抑えとして筑後守護職にも任ぜられるなど、勢力を拡大したが、持朝もその子為邦も大友氏討伐に失敗して菊池氏の衰退が始まることになる。為邦の子の重朝の代になると一族の内紛が頻発し、重朝は弟の武邦を討ち、重朝の子の能運は大叔父の宇土為光一族を討ったが、その際の戦傷がもとで23歳で死去したことにより、菊池本家の当主は絶えた。その後は政隆(能運の又従兄弟)が継ぐも実権はなく、阿蘇惟長が菊池武経と名を改めて菊池氏の家督を奪い、政隆を自害に追い込んだ。武経が家臣と対立して出奔すると、分家の詫摩家から武包が継いだが求心力はなく、大友氏から義武を養子に迎えて継がせた。しかし、義武はそれなりに野心のある人物だったらしく、国人衆を従えて大友氏勢力からの独立を目指したことから、甥にあたる大友義鎮(宗麟)に討たれ、大名としての菊池氏は滅亡した。

 菊池氏の家系図

菊池氏系図(一部抜粋)

 菊池武時が子沢山であったことから横に大きく広がっています。

 全体が見えるPDF版はコチラからご覧ください。

菊池氏系図.pdf - Google ドライブ

 編集後記

 菊池氏の系図というと、菊池武時が子沢山であったものの、家系としては菊池武光流が宗家として続いていったという印象ですが、今回は傍流にも焦点を当ててみました。参考文献にも記載した澁谷龍著『探求菊池一族 ─古系圖に見える真実─』によれば、米良氏として続いて明治時代に男爵を授かった家系以外にも、菊池氏宗家の直系子孫を称する家系がいたり、陸奥越中、伊予にも菊池氏の子孫を称する家系がいたりすることが明かされています。

 参考文献・史料

 『筑後国史』

dl.ndl.go.jp

 『相良家文書 菊池氏系図

dcollections.lib.keio.ac.jp

 『菊池郡誌』

dl.ndl.go.jp

 『平成新修旧華族家系大成 上巻』

 『人物叢書 菊池氏三代』

 『探求菊池一族 ─古系圖に見える真実─』

 

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