家系図探訪人

家系図や、養子縁組に興味を持っています。史料としては主に新訂寛政重修諸家譜を用います。Twitter:@rekishi290

『寛政重修諸家譜』の史料的価値について

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先日行った摩耶山からの夜景


今回は、寛政譜の史料的価値、研究対象としての寛政譜についてについて考察していこうと思います。

 

目次

 

史料としてどこまで信用できるのか?

 まず、『寛永諸家系図伝』と記述に食い違いがある家が散見されることが挙げられる。もっとも、その場合は寛政譜にて訂正した旨が但し書きされていることがほとんどである。次に、正確性という面から、池田綱政のように多数の子女がいる場合、全員が記されていない。徳川家(特に神君家康)に如何に尽くして幕府成立に貢献したかばかり誇大に述べられている(実際、その世代の事績は異様に長い)。

 

寛政譜の弱点

  寛政譜の弱点としては、上記の通り史料としての信用性に疑問があること、当然ながら寛政期までしか載っていないこと、陪臣になった分家の追跡ができないことが挙げられる。また、幕臣系図をまとめたものに過ぎないので、子孫が幕臣とならずに滅んだ千葉氏や宇都宮氏など滅んだ名族の系図がないことがある。ただし、この点に関しては他の史料が豊富であるので系図の復元は可能であることが多い。逆に、子孫が幕臣となっていても、神保氏のように系図の消失や混乱がある場合は系図は省略されていることもある。特に、零細旗本の項目では幕臣になる以前の系譜は不明であることが多い。 

 

寛政譜を用いた研究事例

 「寛政重修諸家譜」を用いた研究事例として以下の2つを挙げておく。

 

 脇田修(1982)「幕藩体制と女性」、女性史総合研究会編『日本女性史 第3巻 近世』、東京大学出版会、pp. 1-30(所収)。

 浅倉有子(1990)「武家女性の婚姻に関する統計的研究・試論」、近世女性史研究会編『江戸時代の女性たち』、吉川弘文館、pp. 47-74(所収)。

 

 脇田(1982)は三河松平家125家を集計し、離婚率は約10%で、前期は7.6%で中期以降は11%弱となっていることと、離婚・死別後の再婚率が50%にのぼることを示した。戦国期に夫と死別することは珍しくなかったこともあり、むしろ戦国では再婚を勧めるのが普通であった。実際、徳川家康の生母も再婚しているし、家康も生母に孝養を尽くし異父弟も厚遇しているので再婚による反感はなかったものとみられている。中期以降も50%を超えることについて脇田氏は「泰平の世だけに結婚が戦国期ほど大きな政治的意味をもっていないから、家の存続や本人の幸福が考えられたのであろう」と考察している。

 浅倉(1990)は脇田氏の研究からさらにサンプルを増やし、大名100家、旗本100家を対象とした。それによると、離婚率は11.22%、再婚率は58.65%であった。また、時代が下るにつれて離婚率は上昇していた。その他、娘の嫁ぎ先は自分より家格の低い家にする傾向があり、再婚するときはさらに石高の少ない家になっている。これは結婚時の持参金の経済的負担を減らすためである。

 他の傾向としては、石高が上昇するほど再婚率は高くなる。大きな大名ほど寡婦を忌避する傾向があったことを再婚を可能とする経済的要因、政治的要素があったからではないかとしている。また、石高の大きい大名ほど積極的に養女を取り込んで他家へ嫁がせていることが明らかになった。

 

おわりに

 寛政譜を系図史料としてのみ活用するのは危険ですが、旗本間の婚姻関係や、どういった旗本が何歳くらいでどういった役職に就いたかを調べたり、上述のようなユニークな研究の史料として活用するなど、使い方によってはまだまだ新たな知見が得られる可能性を秘めている史料と言えるのではないのでしょうか。

 

以上長文失礼しました。ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

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