今回から3回に分けて徳島藩主・蜂須賀家について述べていきます。
蜂須賀家の家系図
=は養子を表します。
徳島藩主家
正勝─家政─至鎮─忠英─光隆─綱通=綱矩(隆矩子)─宗員=宗英(隆喜子)=宗鎮(松平頼煕子)=至央(宗鎮弟)=重喜(佐竹義道子)─治昭─斉昌=斉裕(徳川家斉子)─茂韶─正韶─正氏
分家・富田藩
隆重=隆長(隆喜子)=正員(綱矩子、本家相続し宗員)
あとがき
他家から迎えた養子として、宗鎮、至央、重喜、斉裕と、家を継ぐ前に早世した宗純(宗鎮養子、松平忠雅子)がいる。将軍家斉の実子である斉裕に関してはともかく、宗鎮、至央の兄弟は高松藩家臣松平頼煕の子であり、陪臣から国持大名となったのは妙である。重喜の実父の佐竹義道も大名ではあるが佐竹家の分家2万石の小大名である。
おそらくは重臣の言いなりになるような藩主が望まれたのであろう。もっとも、重喜は自身で改革を断行し、結果として藩内に混乱を招いたとされて隠居させられている。
しかし、一点気になるのは、藩祖正勝以来の男系の血筋の重隆を宗鎮が廃嫡したのは奇妙である。しかも、廃嫡後すぐに隠居して弟の至央に家督を譲っている。ちなみに重隆は廃嫡後も58歳まで生きている。重隆の子の喜憲は重喜によって中老として臣下に降りた。喜憲の弟の隆穀の子の隆寛の代で藩祖正勝の男系子孫は絶えた。
宗英隠居時点で重矩も重隆も10歳前後であったため、中継ぎの藩主として宗鎮を迎えたのであろうが、もし宗鎮が重隆を廃嫡していなければ、と思うのはナンセンスなのかもしれない。
蜂須賀家一門・公族については徳島藩(3)の記事で詳述します。
参考文献
参考史料は下記リンクから直接閲覧できます。
第2回と第3回の記事は下記よりご覧ください。
genealogy-research.hatenablog.com
genealogy-research.hatenablog.com
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